●ドキュメント脳卒中「体験記その4 復職編」
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●復職


2009年3月7日 脳出血発症。新居浜市内の県立病院に救急搬送、ほどなくして急性期リハビリを開始。
2009年3月26日 県都松山市にあるリハビリテーション病院に転院し、回復期リハビリを開始する。休職生活の開始でもある。
2009年8月22日 退院。ふるさとの我が家に帰り、自宅療養とともに、介護保険の利用による訪問リハビリと通所リハビリを開始する。
2009年1月4日 復職に先駆け慣らし勤務を開始する。週数日、半日勤務から3月末にかけ徐々に勤務日数と勤務時間を増やしていく。 そして・・・・


○慣らし勤務
休職し、長い入院生活と療養生活から一気に復職して完全勤務となることは困難とされているようで、慣らし勤務の制度により、休職期間中から勤務を試みる。
慣らし勤務とは「お試し勤務」の性格も併せ持つ。
私は事務職であり部署でも20年近い超ベテラン的存在であったため、勤務には即座に適応するように楽観していた。
ところが現実は違った。
通所リハビリに通いながら感じていたことだが、体力と精神力そして何より能力の低下をしみじみ感じた。
デスクワークでも半日座っているだけでへとへとに疲れた。
1年間のブランクは予想外に尾大きなダメージだった。
通所リハビリや訪問リハビリも併行して行いながら勤務時間と日数を増やすように勤めた。
職場の皆さんは私を温かく迎えてくれ、何かと気遣ってもらった。
しんどい日は無理せず療養した。寒い冬と例年にない寒い春を経て、4月1日の完全復帰に備えた。
復職のために、「勤務可能」との診断書を勤務先に提出、併せて障害基礎年金受給の申請も行った。
○復職
4月1日 「復職」の辞令をもらい、復職した。
私が念願してやまなかった「復職」がかなった。
しかし、前途多難で生易しいものではなかった。
着替えに時間がかかるため、早寝早起きが肝要である。
ネクタイの締め方を忘れていたり、思い出しても片手でネクタイを締めることは至難の業だった。
通勤は、同じ方向に勤務先のある妻の運転で、毎日の送り迎えの負担をかけざるを得なかった。帰宅時間が異なる場合は、タクシーで帰宅した。
タクシー代は100円前後で、障害者手帳のおかげで1割引きにしてもらえた。
相変わらずデスクで座ることが苦痛でつらい日が続く。
部署でエース的な存在から非力な存在に成り下がっていたことが精神的につらかった。仕事人間として多忙を喜々として勤務に打ち込んでいたのがほんの1年余り前のことである。
常にトイレのことに気を配る毎日である。失禁や脱糞は避けねばならない。
トイレの往復に20分近くかかることもあった。
おーさんの助言で男子トイレが使用可能となっていたことが大いに助かった。
障害者用トイレはエレベータを使い、1階上まで移動した。階段を使うことは避けた。
トイレを出て、エレベータ前のベンチに座りシャツとズボンの身づくろいをしなければならなかった。
左の片麻痺の私であるが、片手でパソコンを操作できることでデスクワークには耐えられた。特に仮名うち仮名変換だったことで右手だけでも操作ができた。
だが、封筒から書類を出したり、書類の簿冊の取り扱いには難渋した。
何かと想定外のことがあった。
大事な電話のメモが取れない。
早口でしゃべろうとするとろれつがおかしい自分の声が受話器で聞こえ愕然とした。
職場の飲み会では皆さんの介助をいただいた。畳席の宴会はつらかった。何よりも酒に酔うことが私には禁物となっている。
復職したため、リハビリ時間が激減し、機能低下におびえることもあった。
週1時間有給休暇を取り、訪問リハビリを受けるほか、土曜は通所リハビリにも通った。
体力の低下した体が勤務になじめず、つらい日は無理せずに休暇をとった。
地方公務員でデスクワークであった私は、復職が有利だったことは幸いである。
脳卒中により片麻痺等の障害が残る年齢は今後も若くなるだろう。働き盛りであったり扶養すべき家族がいる場合、復職を目標とされる人も多くなるだろう。
平坦な道ではないことを実感するが、気持ちの持ちようでがんばるしかあるまい。
やがて退職して老後の生活に入るだろうが、長寿社会ゆえに、老後の生活は長くなるだろう。障害を受け入れ、あるいは障害と闘いながら生きる長い老後を展望しながら過ごす復職後の毎日である。