えっ!脳卒中?
それは私の身体にに突然起こった・・・・
ドキュメント脳卒中「体験記 入院生活編 その1」●ドキュメント脳卒中「体験記 入院生活編 その2」へ ※当初は、昭和30年代生まれのお部屋の特設コーナーとして開設。 障害と向き合って生きるすべての人々に幸多からん 私は2009年3月にに52歳を迎える生粋の昭和30年代生まれのおやじである。 それは突然やってきた。。 2009年3月7日(土)夕刻、脳内出血で救急病院へ搬送された。 命はとりとめたものの、左半身に重い障害が残った。 ◆急性期の入院生活◆ 2009年3月7日、初めての入院である。 病院に着き、しばらくして眠りについた。◆ 目覚めると、家族や親族がいた。◆ 天敵が腕に刺さっていた。◆ 急性期の病院では、看護士や医師から「名前は?」生年月日は?」「ここはどこですか?」 同じことを何度も聞かれた。 食事は入院当初、自分でうまくできず、手伝ってもらっていた。 お皿の左側が認識できていないことを知らされた。 トイレに行けず、紙おむつのお世話になった。 ときどき、病室と自室を錯覚していることがあった。 物事を思いついては、片端から忘れていった。 数日したら完治して退院できると事態をまったく理解していない始末。 数日して短時間のリハビリがはじまった。 急性期のリハビリはベッドで始まった。 病院から回復期の病院で本格的なリハビリに専念するよう勧められた。 病院からは、我が家から遠い松山市や伊予市にある病院を勧められた。 今の病院でいいと言って妻を困らせたが、なんと妻は遠い2つの病院の下見までしてくれていた。 ◆回復期の入院生活◆ 2009年3月26日(木)リハビリテーション病院へ転院 自宅から約50km、高速道路を利用して1時間余りの県都松山市内にある。 新しく明るいきれいな印象である 毎日1日3〜4回の理学療法士の先生と作業療法士の先生からの指導のもと訓練を受けた。 赤ちゃんからの直しである。 訓練のない時間はテレビ鑑賞をするしかなすすべがなかった。 「インターネットがしたい。」 奥さんには無理を言った。 すぐにイーモバイルの契約をしてくれ、倒れる前に買っておいたモバイルパソコンとモデムを持参してくれた。 「これでネットができるぞ。」 私は狂喜した。私は携帯電話でメールが打てない時代遅れのオヤジである。しかし、これで子供たち家族とメールのやりとりが可能になった。 パソコンや熱とが唯一の趣味であった私である。 にわかに私が活性化していった。 日記をMS-WORDで打ち込んだ。毎日の血糖値をEXCELLに打ち込んだ。明日のための何とやら。明日のジョーだ。 もともと仮名打ちだったので、利き腕の右手で何とかなる。 また復職も視野に入れている私にはとてもよいリハビリとなっている。 この病院では車椅子の生活で、食事は食堂で他の入院患者と食べる。 トイレはナースコールで車椅子をトイレまで押してもらい、パンツンをぬがされ、すべて手伝ってもらい用が終わるまで介護士さんが監視して手伝ってくれた。 ◆ジル・ボルト・テイラー博士のこと◆ 入院間もなくNHKで脳科学者のジル・ボルト・テイラー博士が、脳卒中が襲われ。徐々に左脳が破壊され、歩くことも話すこともできなくなり、重い障害を残してから八年間の苦闘を通し奇跡の再生を遂げた女性のドキュメントが放送された。 私たち夫婦は興味深くその番組に見入った。著書「奇跡の脳」はアメリカで50万部の大ベストセラーとなった超話題作である!。 。 この人はすごい。 ◆人とのご縁◆ 入院してからたくさんのかたがたがこんな私のために見舞に来られ、 温かい励ましをいただき夢と希望をいただいた。 「私はなんて幸福者なんだ。生きていてよかった。」 見舞いがあるたびにうれしくて家族にその旨を伝え、子供たちに人とのつながりの大切さをメールで伝えた。親としての責務であると思う。 ★リハビリテーションのこと 私は毎日、作業療法士の新婚ほやほやのK先生と可愛らしい理学療法士のH先生とY先生からリハビリテーションの訓練を受けた。 理学療法士のH先生とY先生は長女と年齢があまり変わらない。何やら娘に面倒を見てもらっているようで、訓練がうれしくもあり楽しかった。 日増しに成果が現れた。 平行棒伝いに歩行できた 4本足の杖を使って歩行できた。 左手で物をつかむことができた。 左手で招き猫の真似ができた。 成果が出るたび家族にメールで知らせた。 これらは先生がたの気長なご指導の賜物である。 しかし、まだまだである。 ●リハビリテーション とは、出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ●理学療法士 とは、出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ●作業療法士とは、 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ★OK君=「おーさん」のこと その中でOK君は大学時代同じ下宿でとても仲良くしていた親友である。 互いの結婚式も祝いあった。毎年年賀状のやりとりも続いているが、 昨年の年賀状でOK君が3年前に同じ脳出血で倒れたとの消息を知った。 年賀状を見てすぐに電話をして状況をうかがったりしたが、私はすぐに見舞に行ってやれなかった自分を恥じている。 私は人との縁を大切にしたい思いからOK君をはじめ旧知のかたがたと可能な限り連絡をとり、お互いの近況を交換した。 25年ぶりの大学の先輩との再会は涙があふれた。 OK君は同じ左麻痺でかなり重い障害を背負いながらも明るく私を激励してくれた、。 そして次のような会話を交わした。 私「OK君よ。死ぬまでに会いたいのう。」 OK君「いいや。ワシは死なんぞ。百まで生きるぞ。」 弱気な私に比べ、なんて元気なことか。 そしてそれから数日後OK君は夫婦で見舞に来てくれた。 OK君は雄雄しく力強く杖で歩行して元気な笑顔を見せてくれた。 驚いたことに、お二人とも心身ともに大変であったはずなのに、とても明るくさわやかで元気だ 特に奥さんが歳をとっておらず、若々しくかわいいのである。明るく励ましてくれた。 OK君本人もさることながら奥さんの苦労は計り知れないものがあったろう。 でも明るいのだ。お二人から元気を分けてもらった思いがする。 実はうちの奥さんも救急以来毎日仕事が終わってから病室に来てくれる。 そんな母親を長男が気遣っていた 障害と向き合って明るく生きる理想的な夫婦の姿を拝見した思いである。 OK君は「おーさん」の愛称で地元で呼ばれているそうな。 「おーさん」は おーさんの日記は私の日記とともに当ホームページで公開している。 脳卒中の後遺症を背負って生きるおやじの日常を垣間見ていただきたい。 ◆「おーさん」について 生年 1957年1月 私、やす坊とは大学の同級で同じ下宿生活。 > 住所 愛媛県、妻と二人住まい。 > 卒中歴 > 団体職員在職中の2005年9月14日脳出血発症 > 障害の程度 > 左半身に運動障害と感覚障害の後遺症が残る。 > 05年9月 入院 > 06年8月 退院 > 07年3月 団体職員を退職 > 現在デイケアにてリハビリするとともに、地元の人たちと溶> け込んだ穏やかな生活を楽しんでいる。 > 障害者手帳2級 > 現在T字杖で歩行 > 室内なら杖なしでも歩行可能 > 趣味 メダカの飼育。 > 信条 「明日があるさ」 その後 短下肢装具のことをおーさんから初めて教わった。 障害と戦いながらその心構え、生活姿勢には達観したものがあり、老後の生活設計もしっかり考慮しており学ぶに値する。 私はこれからも友人の助言忠告を大切に生きて生きたいと考えている。 そうした助言のうち許される範囲内でその内容を紹介していきたいと思う。 OK君からの通信
私たち夫婦の目標とする夫婦像を見つけた。 |