えっ!脳卒中?
それは私の身体にに突然起こった・・・・
ドキュメント脳卒中「体験記発症編」●「体験記入院編」へ ※当初は、昭和30年代生まれのお部屋の特設コーナーとして開設。 障害と向き合って生きるすべての人々に幸多からん 私は2009年3月にに52歳を迎えた生粋の昭和30年代生まれのおやじである。 ◆ 序章 ◆ 脳卒中になる前の背景 ・すでに肥満で、メタボ体形で糖尿病、高血圧、高脂血症と診断されており、いわば生活習慣病で病むオヤジの典型そのものであった。 ・特に糖尿病はかかりつけの開業医の先生から「入院してみっちり治さないと命取りになるよ。」と再三警告を受けていた。 ・そのこともあって、遅ればせながら健康に少しは気遣うようになり、倒れる前の週には禁煙禁酒には成功していた。 「やればできたじやないか。 なのにである。 元々、糖尿病自体が痛みや不快感を伴う病気ではないため、甘く見過ぎて不摂生を重ねていた。 自分自身で血糖値を計りつつインスリンを打って血糖コントロールしながら毎日がんばっている自分へのごほうびとの甘えから毎日晩酌を飲み、 タバコも1日50本という不摂生を続けていた。 おそらく私の血管はひどい状態になっていたことであろう。 1月の人間ドックでは糖尿病に加え、逆流性食道炎のおそれがあるため、胃カメラの再検査も受けた。 何しろ逆流性食道炎は食道がんの原因にもなるとの警告が怖かった。 そのため禁酒、禁煙に踏み切り禁煙は達成。2月の東京出張時の飲酒が最後のお酒となるはずであった。※ ※東京浅草での牛すじの煮込みと焼酎は最高においしかったのです。 50歳といえば仕事では管理職として精勤、家庭では子どもたちの進学就職を控えた重要な時期である。 私はこれでも大学時代は苦学した。 父を亡くして以来、学費と生活費はバイトで稼ぐという勤労学生であった 「思えば今までよく働いたな」 不摂生は禁物で、最悪の結果を招くであろうことは頭では理解し予期もできたはずであったが 、 「再来週には進学の決まった長男の引越しだ。よかったよかった。私もがんばらなくては。楽しみだな・・・・。」 「もう一回、最後の酒行ってみようか。・・・その油断と甘えから それは突然やってきた。。 2009年3月7日(土)夕刻、仕事も一息との思いから、日本酒を一口。「う、うまい。なんてうまい酒なんだ。とろけそうだ。」 なぜか今まで飲んだ酒で一番おいしかったような記憶が残っている。 。(ほんとうはコンビニで買えた、一合100円程度のお徳用の安い酒である) 暫時酩酊ののち、なんとなく頭のほうに異変を感じた。 「ん?なんじゃーこれは。」 (松田勇作さん風に)目の前に自分の左手が。「あれっ。感覚がないぞ。」 「ひょっとしてこれ脳内出血だろうか。」 「当たり」である 意識はあったと思うが、身体に力が入らない。 「わー。死ぬんだろうか。」 家族のことが頭をよぎること。よぎること。 「みんな。ごめんよ。」 「初期不良で新品交換をお願いしていたミニノートパソコンは届いているかな。」 ※前の週、安くなったミニノートパソコンを3台も親父買いしていた。このパソコンが後に私に力を与えてくれることになる。 「やっぱり死ぬんだろうな。」 「寂しいよ」 寸刻の間に雑多な思いが走る。走る。 「当座、家族は遺族年金と退職手当でなんとかしのげるか。借金も残してないし。少し安心。」 「長男の引越し楽しみだな。この子がもう大学生なのか。大きくなった。長女も不況の中、懸命に就職活動中で大人っぽくなった。」 本当に走馬灯のように想いが走り、せつない思いが高まった。 その時、私の奥さんが勤めから帰ってきた。まだ意識があったと思う。 私の奥さんは私の異変を的確に判断し救急車を呼んでくれた。 意識は病院についてからも機能していた。後に知り愕然となる身体機能が破壊されている事実はまだ認識にない。 隣町の救急究明センターへ。 「命は助かった」 脳内出血と診断された。 部位でいうと、視床出血である。 救急措置と点滴のおかげで命拾いした。 ★このときの教訓★ 歳をとったら夫婦間疎遠にならないようにしよう。 私は奥さんが呼びかけてくれたおかげで命拾いした。 もっともこの命拾いが幸福であったことをこれから余生かけて努力して証明したいと考えている。 30年前、私の父も49歳で脳出血で逝ったが倒れてから半日もしないうちにこの世を去った。 医学は進歩している。 私は生きている。 しかしである。 重い障害が残った。 私の脳の出血は右側に生じたらしい。 この場合左半身に障害が残る 右手右足の感覚と運動機能が損なわれていた。 ベッドで平衡感覚を保ってまっすぐ平衡を保ち座っていることすら困難だったらしい。 幸い利き腕の右手と右足の運動機能、右半身の感覚神経、言語機能は残った。 後に知るが、 一般的に、右麻痺の場合、失語症を伴うことが多いらしく、左麻痺の場合、性格変容(=自己中心的になる、感情的になる)が起こる場合が多いとされているらしい。 一日か半日程度だが、ずいぶん長い間睡眠と覚醒を繰り返していた気がする。 目を覚ますと枕元に家族やがいて親族や職場のみなさんがかけつけてくれていた。 「心強い。」 かかりつけの開業医の先生もかけつけてくれていた。「やっぱりいい先生なんだ。もっと言いつけを守っておればよかった。先生、私が愚か者だった・・・」と懺悔の思いを持った。 そして禁煙と禁酒にがんばったことを先生に懸命に伝えたような記憶が。 後に知る後遺症の事実はしばらく飲み込めていなかった。 少し身体を休めれば自分で車を運転して帰れるつもりでいた。 私を襲った脳内出血とは 出典フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 初めての入院である。 半世紀の人生で多病息災というか決して丈夫でなかったにもかかわらず大病や入院には無縁であった。 最初の入院は隣町の郊外あるこの季節桜の美しい病院である。かつて母親が入院していた。 家族と義父義母が毎日来てくれていろいろ気遣ってくれた 義父と義母はしょっちゅう身体のマッサージをしてくれた。実の父母を感じ、泣けてきた。 初めての入院でとまどったのは排泄排尿である。 排尿は紙おむつか管による導尿によった。 若く美しい介護士さんと看護士さんには、まるで乳飲み子にしてくださるように本当にお世話になった。でもとても恥ずかしかった 入院の第一の試練であった。 夜中に目を覚ますと、自宅の自室にいるような錯覚に襲われた。「やはり私は壊れている。 この時期、よく物事を思いついてはすさまじい勢いで忘れた。後遺症のせいだろうか。忘れてはものすごい不安に襲われた。 ★このときの教訓★ 手帳とかメモをとれる用意をしておこう 日中、理学療法士さんの訓練を受けた。 左半身の失われた機能を知り、後遺症の事実を認識し愕然とし始めていた。 心の中ではこのつらい事実を受け入れられないのだ。 自信喪失中の私をよく励ましてくれた。「よく動いているよ」とほめてくれて前途への希望をくれた。 ただ、リハビリ専門病院でないため訓練時間は乏しかった。 後日理解できたがこの時期はいわゆる「急性期」のリハビリテーションで発症して間もない時期には、病室でのリハビリテーションが行われるらしい。 実家も近いこの病院での入院生活は後日の遠く離れたリハビリ専門病院での入院生活より精神的な負担は軽かった 病院のほうからも早期に本格的なリハビリテーションをしたほうがよいとのことで、リハビリ専門病院を紹介してくれた。その中でも県都にある専門病院に私の奥さんは下見に出かけ、目星をつけてくれた。 2009年3月26日(木)リハビリテーション病院へ転院 自宅から約50km、高速道路を利用して1時間余りの場所にある。 比較的に新しく明るい印象である ☆このときの教訓 リハビリテーションは早期に開始すべし 夜、不安と孤独感、自責の念にさいなまれ、寝つけない。 厳しすぎる現実が受け入れられない。 「これなら死んでいたほうが楽だった。」と本気で考えたこともある。 そんな弱気で情けない自分に家族や旧知の皆さんが何かと勇気をくれた 年度末に退職される職場の大先輩からは 。 障害の残った私に「まだ生きているのだ。天がまだお前を必要としているから死なせなかった。これからはその障害を受け入れて生ていくんだ。」という言葉をいただいた。 この言葉のおかげで私は吹っ切れた。 このほか人生の先輩がたから心に染みる温かい言葉をたくさんいただいた。 そのお言葉の一つ一つから、これからの私に計り知れない希望を与えてくれた。 ●体験記 入院編へ |